軍部大日本帝国陸海軍の際立った特徴は輸入品だということです。軍隊というのは人類の歴史が始まって以来常に存在するもので、軍隊を持たない国家というのは存在しません。 ローマ法王が元首であるバチカン市国でさえ軍隊を持っています。 軍隊は国家の発生以来存在するものですから、その組織や運営の仕方はその民族の伝統の中に深く組み込まれています。 従って軍隊の組織というのは通常社会組織そのままです。 江戸時代の幕府や藩という社会組織は軍隊組織そのものです。 殿様が司令官で家老が部隊長です。通常の社会での地位がそのまま軍隊での地位になります。 ヨーロッパでも同じです。貴族が平時は国の政治を行い、戦時には将校になります。貴族の領内の百姓がそのまま兵士になります。 またその民族の生活方式や思考方法が軍隊に反映します。 家畜を追って絶えず移動している遊牧民の軍隊は騎兵が主体です。そして徒歩で戦う歩兵は軽蔑されます。 自作農が主体であるローマの軍隊は重装歩兵が主力でした。 商業国家は、費用と効果という損得勘定に敏感ですから平時は費用だけがかかる常備軍を持ちません。 戦争になれば他所からプロの傭兵を雇ってきます。 貿易によって国を成り立たせていたヴェネチアでは陸軍は傭兵に頼りましたが海軍は自国民で編成しました。 日本の江戸時代は軍事組織である藩がそのまま政治組織になったものでした。 家康が国内を統一した後は諸大名が反乱を起こさないようにその戦力を殺ぐことに一所懸命でした。 参勤交代やお手伝い普請で金を使わせ、一国一城令で要塞を新設することを禁じました。 また勝手に軍事教練をすることも禁じたのです。 一方で臨戦態勢を維持することを大名に義務付けながら戦争が出来ないようにするというのも非常におかしな話です。 その結果関が原から100年経った元禄時代には武士は戦争の仕方が完全に分らなくなっていました。 赤穂浪士で有名な赤穂藩がまだ健在だった時、近くの備中松山藩が取り潰され幕府は赤穂藩に城の接収を命令しました。 松山藩の元藩士たちが幕府の処置に抵抗して城に立てこもるかもしれませんから、赤穂藩は臨戦態勢の軍隊で城の接収に行かなければなりません。 大石内蔵助は実戦の軍隊組織を一から作り上げなければなりませんでした。 その結果内蔵助が赤穂軍を率いて備中に向ったのは幕府の命令から数ヶ月後になってしまいました。 1853年、アメリカのペリー提督の率いる艦隊が浦賀にやって来て日本中が大騒ぎになりました。 幕府は諸大名に浦賀周辺を警護するよう命じましたので、各藩は江戸藩邸にいた藩士を招集して急遽守備隊を結成しました。 ところが戦闘の仕方を誰も知らないので藩の軍学師範に講義をさせたのです。 そこで軍学師範が藩士に教えた内容は首実検のやり方だったのです。 戦場で敵を倒したらその証拠として首を切り落とし殿様に見せなければなりません。 首は洗って髪をすき、三方にのせて差し出すのだなどと講義を始めたのです。 夷狄であるヨーロッパ人との戦いや幕府との戦いなど実際の戦争に直面した雄藩の武士たちが軍学師範など相手にせずヨーロッパの軍事学である兵学を熱心に学んだのは当然です。 その結果分ってきたのは近代軍隊とは総合産業であるということでした。 野戦軍というのは戦闘隊形を保ったまま移動しなければなりません。 三食食べなければならずトイレに行き夜は寝なければなりません。 生活する設備一切を持って移動しなければなりませんから医者・僧侶や床屋まで必要です。 武器弾薬を安全に持ち歩かなければならないし修理工場も必要です。 通信部隊も入ります。 昔なら馬やのろしを使ったでしょうし、最近では電話や無線になります。 道路や橋・要塞を築く土木要員である工兵は不可欠です。 また兵士や馬の食糧も持っていかなければなりません。今ならガソリンになります。 現地で略奪すれば住民がゲリラになって歯向かってくるからです。 敵地を占領したらそこを統治しなければならないので、行政官も連れて行かなければなりません。 軍隊内の統制や住民とのトラブル防止のための警察組織も必要です。 敵の政府や敵指令部との交渉要員や通訳もいります。 戦争にはルールがありますからそれを破ると和平交渉のときに不利になります。だから法律家も必要なのです。 また兵器は日進月歩ですから兵器の研究者や兵器製造工場も当然ですし、敵の社会を研究する社会科学者も雇っていなければなりません。 ベトナム戦争のとき50万人のアメリカ軍がベトナムに駐留していましたが、実際にジャングルで戦っていたのは10万人でした。 あとの40万人は後方支援でそれ以外に膨大な輸送要員がおり兵器産業がありました。 明治政府は急いで近代軍隊を持たなければなりませんから、日本人の性格にあった組織を研究する時間的余裕などありませんでした。 そこで外国の軍事組織をそのまま日本に導入しました。 海軍はイギリス流で陸軍はドイツ流です。 明治初めの兵学校の教師はほとんどが外国の軍人で日本語は厳禁でした。 田舎から出てきた貧乏士族の少年たちは生まれて初めて履く靴のきつさに悩み軍服のボタンのかけ方が分らずに右往左往していました。 兵営の中と外は全くの別世界だったのです。 軍隊の中の常識は世間で通用せず、世間の通念は兵営の中では無力でした。 日本の軍隊というのは誕生の始まりからして社会から浮き上がっていたのです。 ヨーロッパでも軍隊というのは特殊な社会で軍人同士の結束力は極めて強いのですが、社会から完全に孤立してはいません。 平時は商売をしたり学校の先生をしていたのが戦時には将校になり軍隊の中枢で頑張っています。 社会と軍隊内のルールに大きな差があるわけではないので、社会での経験が軍隊でも通用するからです。 しかし日本では全くの別世界ですから大企業の課長が中隊長となることは無理です。 逆に将校が年齢相応の仕事を社会で果たすことができませんでした。 つまり日本の軍人は「つぶし」が効かなかったのです。 日本の軍隊というのはこのような基本的な性格を持っていたのですが、日露戦争まではこの弊害が表面化しませんでした。 戦争を指導した指導者たちは正規の軍人教育を受けておらず、社会的常識を身に着けていたからです。 また当時の緊張した情況ではそれなりに努力もしていました。 ところが日露戦争後幹部の世代交代が起こり十代後半から軍隊で生活し実社会の経験の全くない者たちが将軍になっていきました。 20歳過ぎに士官学校を卒業した若者が当番兵に靴を脱がさせ下着を洗わせるという兵営生活をしたのです。 それが一歩兵営を出るとただの若造の扱いしか受けないので、彼ら若手将校は社会に出るのを嫌がっていました。 大正時代は軍隊を税金泥棒と邪魔扱いした時代で軍隊もリストラされました。 軍隊から解雇された中高年の将校は社会で通用しませんからろくな勤め先がなく苦労しています。 解雇されないまでも軍服で街を歩けるような雰囲気ではなかったようです。 大正時代に先輩たちが苦労したことは昭和の軍人たちに大きな影響を与えました。 昭和になって軍人が軍縮に強烈に抵抗したのはこういう理由です。 一般社会で生活する能力がありませんから彼らも必死だったのです。 日本人はもともと「同じ釜の飯を食った仲間」の意識が強く、ほっておいても職場が運命共同体になります。 それにこれらの特殊要因が重なって、昭和に入ってからの軍隊は強固な運命共同体になりました。 人間は自分の望む環境に生まれることは出来ません。 両親とか昔の村落といったものは運命であって自分で選べませんし、そこから自由に離脱することも出来ません。 だからこれらを運命共同体といいます。 しかし大きくなって自分の意志で他人と共同して何かを行おうとする時は目的があり、その集団はその目的に合うように機能的な組織になります。 高校生になってクラスメートとバンドを作るということは、その仲間が一緒に音楽を演奏するという「目的」を持ちます。 数人の仲間は音楽を演奏するという目的を達成できるように「機能的」な組織を作ります。 ドラムとかトランペットとか各自がその担当を決めます。 そして毎週金曜日の放課後4時から2時間練習しようという「ルール」を決めます。 これは「機能集団」です。 会社というのは、本来はそれによって利益を得ようと株主が作った機能集団です。 軍隊は外敵の侵入を防ぐことを目的とした機能集団です。 日本軍も日本の独立を維持することを目的とした機能集団としてスタートしました。 そのために最も機能的だと考えてヨーロッパ式の組織を導入しました。 ところがそれが日本人の発想・習慣と全く違っていたために職業軍人たちは軍人以外には全く使い物にならない「つぶしの効かない」ものになってしまいました。 だから軍隊から離脱できなくなってしまい、そこで一生を送る以外に方法が無くなってしまったのです。 これを日本人の持っている「同じ釜の飯を食う」仲間意識を強化しました。 このために職業軍人たちは自分たちの組織にしがみつきその組織の利益を最優先に考える様になりました。 それに伴い彼らの目的が「外敵を打ち破る」ことから「軍隊の勢力を維持拡大する」ことへ変わっていきました。 このようにして軍隊と自分たちの運命を共にする運命共同体が出来上がったのです。 徴兵された兵士たちにも同じような現象が起きました。 農村から集められた若者は「内務班」という小さなグループに入れられて新兵の教育を受けました。 内務班というのは軍曹一人と伍長二人の下士官を幹部とし全部で20~30人の兵隊で構成されていました。 ここで新兵を軍隊に慣れさせるために強烈な教育が行われたのです。 常習的に私的制裁が行われここでの生活を経験した年配の方はみな強烈な嫌悪感を今でも持っています。 この内務班で行われたリンチは現在の日本の企業で行われている新入社員教育と同じ性格のものです。 私は日本の有名大企業に勤めている一流大学を卒業した男の話を聞いたことがあります。 大学を卒業した新入社員たちは一年間新入社員教育を受けました。 これは工場の現場で働く「実習」と新入社員全員を集めて泊り込みで行う「集合教育」の組み合わさったものでした。 工場での実習は実際に製造ラインに入って作業を行うというもので、製造現場を理解できたので彼も一定の評価をしていました。 その一方で高卒や中卒のブルーカラーとの人間関係が大変でした。 集合教育は朝のランニングと社歌斉唱から始まります。 その後昼間は講習を聞き、夜は「娯楽」をします。 その講習というのは有名な評論家による「社会とはこういうものだ」式の講演や特定の政党をぼろくそにけなすというようなものでした。 彼はこれらの講演は何の意味も無かったと評価しています。 夜の娯楽はフォークダンスやゲームといったものでした。 こんなことを二十歳を過ぎ高等教育を受けた者が喜ぶはずがないことは教育を担当している古参社員も当然わかっています。 しかしこの研修期間である一年間は試用期間で身分が不安定なのでいうことを聞かざるを得ないのです。 「会社はこの研修を通じて新入社員に、会社が命令したことはどんな下らないことでも真剣に遂行しなければならないという態度を叩き込んだのだ」というのが彼の結論でした。 自分の所属している組織の必要とすることを誠実に遂行することが運命共同体のメンバーの義務なのです。 たとえその命令が意味の無いことだと思っても、更には一般社会の常識や価値観に反していても会社の命令を遂行することが大切なのです。 内務班にほりこまれた新兵たちも先輩たちのしごきに会いながら運命共同体である軍隊の価値観を身に付けていったのです。 陸軍では兵舎の外の一般社会のことを「地方」と呼んでいました。 「都会」である軍隊内部の価値観のほうが「地方」より優れているという感覚です。 このようにして日本軍は運命共同体になっていきました。 運命共同体は外部には通用しない独特な価値観を持っています。 外部の人間はそれに慣れていませんから共同体内内部の者と摩擦を起こします。 そこから運命共同体になってしまった集団は部外者を排除するようになり、その価値観がますます助長されていきます。 運命共同体になると、その構成員は共同体の内と外を区別し共同体の存続拡大を最優先課題とします。 また仲間内の秩序を乱すよそ者を警戒し排除するようになります。 特に人事に気を遣います。人事に不満がでると仲間の結束にヒビが入るからです。 そこで誰も文句が付けられない客観的な基準で人事を行うようになります。 業績評価というのは非常に主観的ですから危険です。年次と学校時代の成績ははっきりして文句がつきにくいのです。 この時代の軍人の人事も年次と学校時代の成績に見事に従っています。 これは同じく企業という運命共同体のなかで生活している方々には良くわかると思います。 軍隊というのは前線で敵に向って鉄砲や大砲を撃つのが大事だという価値観を本来もっています。 近代軍隊は総合産業のはずなのですが、職業軍人だけで固まっているうちに、この価値観を重視し過ぎて兵科の序列が出来てしまいました。 歩兵とか砲兵という兵科が主流で兵站(物流・調達)とか主計(事務)といった後方支援の兵科は傍流として差別されるようになってしまったのです。 日本軍は運命共同体の常として人事を年次と学校の成績で決めていましたから、士官学校で成績優秀だったものは主流の兵科を選び、陸軍大学や海軍大学を経て軍の最高幹部になっていきました。 彼らは自分の兵科の価値観で軍隊全体を判断しますから、どうしても前線で突撃するという発想になってしまい、軍隊は総合産業だという視点を失っていきました。 陸軍士官学校や海軍兵学校を卒業した仲間以外のよそ者が軍隊内部で権限を握ることを許さないようになっていき、一般の大学を出たものや実業家や特殊技能者などの知識と経験が入るのを妨げるようになったのです。 そして前線で鉄砲を撃つしか能力のない職業軍人だけで軍隊を運営することになってしまい非常に弱体化したのです。 近代戦というのは総力戦で国の全ての能力を結集しなければ負けてしまいますが、日本軍は総力戦が出来ない体質になってしまったのです。 昭和のはじめに軍縮問題が起き、大正時代と同じように自分たちの受難時代が来るかもしれないという危機感を持った軍部は議会と敵対関係になっていきました。 議会は憲法を盾にとって軍部の行動をコントロールしようとし、それに軍部が反撃をしたのが、1935年(昭和10年)におこった天皇機関説問題です。 東大教授の美濃部達吉が唱えていた「天皇機関説」というのは当時の通説でしたが、ヨーロッパの憲法の教科書を翻訳しただけのものでした。 「法」は皇帝より上にあり皇帝も従わなければならず、「法」が社会の仕組みを定めているという説です。 議会や裁判所といった「機関」と同じように「天皇」という「機関」が社会の組織の一つとして存在するというのです。 確かにこの機関説はヨーロッパの社会制度を正確に分析しています。 法(神の意思) → 機関(皇帝、議会、裁判所) → 国民 ドイツ皇帝も国の一機関であり、キリスト教の神の意思(法)に従わなければならないのは当然なのです。 これに対し天皇は神であり「法」そのものを作ったのだから、「法」より上位にある。 また軍人は天皇の家来で天皇の命令にのみ従うと軍部が主張したのです。 これに対して達吉はピントの外れた返事をして「天皇機関説」が腰砕けになってしまいました。 現在の日本の憲法学者は、伊藤博文もヨーロッパ流の憲法の考え方に賛成しており達吉の学説は正しいと主張しています。 しかしこれはヨーロッパ社会の神の存在に無知だからこんな学説になってしまうのです。 日本人はキリスト教の神を信じていませんから、明治憲法はキリスト教の神の意思とは別のものです。 明治維新は天皇が日本の正統な支配者だとして起きたものです。 この天皇の正統性は神である天照大神が日本の正統な支配者で、その子孫である天皇も神であるというところから来ています。 こういう統治の仕組みを作った伊藤博文自身はヨーロッパ式に天皇も憲法に従うべきだと考えていたかもしれません。 しかし天皇は憲法上では人間ではなく神なのですから、達吉のヨーロッパの学説を翻訳しただけの説はなりたたないのです。 神である天皇は自分で作ったルールが気に入らなければ自由に変えることができます。 そして天皇が憲法の遵守を誓った相手は神である先祖ですから、天皇の先祖だけが現在の天皇に文句が言えるのです。 議会や裁判所といった神が作った機関に神が拘束されるはずがないのです。 政治制度を道具として使いその背景にあるキリスト教の存在を考えることをしなかったために、本場のヨーロッパとは別の機能を持つことになってしまったのです。 1300年前儒教を背景とする律令制度を導入して失敗し、江戸時代初めに儒教の一派である朱子学を安易に導入して失敗したのと同じ失敗をまたしても繰り返したのです。 天皇機関説問題と前後して陸軍の若手将校が5・15事件(1932年)や2・26事件(1936年)を起こしました。 当時は政党同士が政権を争っていて国民が議会政治に失望している状況でした。 そこで若手将校たちは議会を否定して天皇が親政を行えば日本は良くなると考えて首相や重臣を襲ったのです。 彼らの思想は幕末の尊皇思想と同じで、天皇が日本の支配者だとして議会の権限を認めませんでした。 自分の心を無欲にして考えた結論は、宇宙のルールと一致すると考えたのです。 この結論を社会の法律など外観から判断できる基準によってチェックしなければならないという考えはないのです。 この考え方は明恵上人の「あるべきようは」と同じです。 無欲になれば自然のなかで自分の占める位置が分るというのが「あるべきようは」ですから。 そして自分が正しいと考えたことと現実が違えば現実を自分の考えに合わすように行動を起こさなければならないとしたのです。 彼らは無断で天皇の軍隊を動かし天皇の任命した大臣を殺害したのですから大変な犯罪です。 軍隊の上層部、裁判所や国民も彼らが日本の法律を犯したことは認めていますが、同時に正義にかなったことをしたとも思ったのです。 そして全国から何十万という減刑を望む嘆願書が裁判所に送られてきました。 日本人は赤穂浪士の討ち入りの時と同じような反応を示したのです。 これらの事件は軍隊の勢力拡大に反対する勢力に大きな精神的ダメージを与えました。 このような状態で軍部はチャイナとの戦争をやめる気はありませんでした。 停戦をするということは自分達の存在価値を否定することで勢力が縮小してしまうと考えたのです。 職業軍人たちは自分たちの運命共同体の利益を最優先して行動したのです。 一般の国民にとっては戦死者がでるし税金は高くなるので戦争継続を嫌がってはいましたが積極的に反対運動を展開することはしませんでした。 国会で多数派が戦争に反対するということは起きなかったのです。 これには色々な理由がありますが、明治時代に政府のやったことは大きな誤りがなかったので国民は政府をまだ信用していたのです。 また、日本がアジアの盟主となってヨーロッパやアメリカとの人種戦争に勝つことが日本の独立と繁栄の道だと思っていたこともあります。 このようにだらだらとチャイナとの戦争を続け、アメリカとの関係も悪化の一途をたどりました。そしてアメリカとの戦争になりました。 ジャンル別一覧
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